法然上人って
どんな人
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敵人を恨むことなかれ
法然上人は、まだ9歳の子どもだった頃にお父さまの漆間時国(うるまのときくに)公を亡くされています。 時国公は美作国(現在の岡山県)の在地豪族の武士でしたが、 都から当地へ派遣されてきていた源内武者定明(げんないむしゃさだあきら)という武士と対立しており、 ある日その武士の夜襲を受けて命を落とされました。 臨終に時国公が遺されたのは 「敵を恨んではいけない。仇を討とうとすれば報復は繰り返され、いつの世までも争いは無くならない。 そなたは世俗を捨てて僧侶となり、迷いの世界を離れ、安らかな心境に達して欲しい」という御言葉でした。
法然上人の求道の始まりは、9歳の子どもの頃に、目の前で父を殺され、その父から託された願いだったのです。 -
巨大組織を飛び出した!
法然上人が所属していた比叡山は、当時最大の仏教教団であり、 公家の勢力や、武家の勢力とも互角以上に争えるほどの力をもった巨大勢力でした。 法然上人はここでの栄達を望むならば、それを遂げることは充分に可能な方でしたが、 ご自分の信条を貫くために山をおりられました。 そして生涯その身を市井の人々のなかに置き、独自の道を歩まれました。 -
権力者にも媚びず弱者に優しく
法然上人の周りには身分にかかわらず多くの人々が集まりました。 帝や上皇、公家や武士といった社会の上層とされていた人たちからの招きも断らず、 詐欺師や盗賊、遊女といった人たちが訪ねて来ても普通にこれを迎えました。
お話しになられるのは、どちらも同じ「お念仏」。 阿弥陀如来がすべての人々を救おうとされているのですから、 そのことを法然上人もすべての人々へ伝えようとなさったのですね。 -
眠くなったら寝ればいい
目が覚めたらお念佛すればいいそれまでの仏教は自分の身を厳しく律して煩悩を滅し、己を仏にまで高めることを目指していました。
しかし法然上人は、すべての人間が、いや真実の意味では誰一人として煩悩を滅することなど出来るものではないだろうという人間観から、 煩悩をもったまま阿弥陀仏に救われる専修念仏へと帰依しました。
兼好法師の『徒然草』には、
“とあります。 その大らかでこだわらない姿勢にかの兼好法師も魅せられたのです。ある人が、法然上人に「念仏の時に眠くなってしまって行ができませんが、 どうしてこの障害を防いだらよろしゅうございましょうか」と言うと、 「目が覚めたら念仏をなさい」と答えられた。じつに尊かった。
”
ただし実際の法然上人ご自身は「持戒堅固(じかいけんご=戒を固くたもつ)」で広く世間に知られた清僧でした。 けれどもご自分の心の中で犯してしまう戒のことなのか、自らのこともやはり「一戒をもたもたず」(ひとつの戒でさえまもれない)と話されています。
これは謙遜ではなく、自分のことを美化せず、ありのままに直視した上での率直な自省の御言葉なのです。